<<第29章>>
■第30章 豪快な男と山科本願寺の焼き討ち
「頼秀殿!丹波の波多野様や、大和の木沢様まで攻めるとは、どういうことですか!お二方とも我らの陣営ですぞ!」
7月下旬、本願寺の大阪御坊で、細川六郎の奉行人・茨木長隆(茨木童子)は、下間頼秀に詰め寄った。
「先日の一揆のご要請に対して、証如様が『私たちは武士ではないので、門徒の統制はとれない』と申し上げましたが、細川六郎様は、それでも構わないとおっしゃられたではないですか。本願寺は、六郎様のご命令に従っておるだけでございます」
「それにしても度が過ぎる!無関係な興福寺や春日大社まで破壊するとは!そのような門徒は直ちに破門にしてくだされ!」
「破門?仏敵と戦っただけの門徒たちを破門にすることなどできません」
「では、これ以上の一揆は停止してくだされ!」
「もう我々の手にも負えないのです」
「どうしたら止められるのですか?」
「仏敵の討滅をと命じましたので、それぞれの門徒らが思い描く仏敵が討滅されるまでは、止まらないのではないでしょうか?もしかすると次は、法華宗の多い京へ向かうかもしれませんな」
「京だと?・・・そうなれば、細川京兆家に対する謀反ということになりますぞ」
「謀反と申されましても・・・ただ、この事態を招いた責任は、細川六郎様にあるということだけは、しっかりと皆様でご認識くだされ」
「もうよい!そのような態度、許されぬぞ!」
長隆は激怒し、畳を叩いて席を立ち、去っていった。
「はははははは」
頼秀は不敵に高笑いしながら、長隆の背を見送った。
「国村、聞いたていたか?」
頼秀が叫んだ。
「はい」
鼻毛を豪快に伸ばした男が入ってきた。摂津の国衆の三宅国村(みやけ くにむら)である。妖怪の百々爺(ももんじい)に似ている。
「やはり、京での一揆は、細川京兆家への謀反となるようだな」
「大義名分なく、天皇陛下のお膝元で天下静謐を乱せば、将軍様への謀反といわれてもしかたありません」
「しかし、京の法華宗は潰しておきたい・・・例の御仁はどうだった?」
「性格にかなりのクセがありますが、御しやすい方です」
「それは幸いだ。保険をかけるに越したことはない。手筈どおりに進めてくれ」
「秀忠様、細川晴国様がお越しになられました・・・」
丹波・神尾山城(かんのおさんじょう)に移っていた波多野秀忠に、家臣は告げた。
「どうした、怪訝そうな顔をして」
「供も連れずにお一人で来られたのです」
「えっ、そうなの?」
秀忠は、細川晴国がいる広間へ入った。
「お待たせいたしました。波多野秀忠でございます」
「俺は、細川晴国だぜぇ」
晴国は答えた。
わしがキャスティングするなら、細川晴国は、お笑い芸人のスギちゃんさんである。
「お一人で来られたのですか?」
「そうだぜぇ。供を連れないどころか、太刀も持たず、丸腰で来たぜぇ。しかも、『俺は細川高国の弟だぜぇ』って、叫びながらきたぜぇ。豪快だろぉ?」
(きっと頭のおかしな人だと思われて、誰も相手にしなかったんだろうな)
秀忠は思った。
「細川国慶様と三宅国村様も、お越しになられました」
「お通ししろ」
細川国慶(ほそかわ くによし)と三宅国村(百々爺)が広間に入ってきた。
細川国慶は、わしがキャスティングするなら、声優の木村昴さんである。
「おいおい晴国、勝手に一人で行くなよ」
「悪かったぜぇ」
晴国は国慶に謝った。
「お前は俺のものなんだからさあ、ちゃんと事前に相談してくれよ」
「俺は俺のものじゃないぜぇ。お前のもんだぜぇ。豪快だろぉ?」
「流石だな、心の友よ!」
(訳が分からない)
秀忠は少々混乱した。
「秀忠様、桂川原の戦や山崎城でもお会いしましたが、摂津国衆の三宅国村でございます」
「おお、覚えておるとも」
(その鼻毛は忘れようにも忘れられん)
秀忠は思った。
「実は私の妻が、本願寺の下間氏の者でして、丹波の対応については、下間頼秀様から私に一任されております。この度、細川高国様の後継者として、細川六郎を打倒すべく、こちらの晴国様が立ち上がられるのですが、本願寺は、六郎とは縁を切り、晴国様をご支援することになりました。もし、秀忠様にもお味方になっていただけるのであれば、八上城をお返しするとのことです」
「それはすごい!一向一揆が味方に付くとなれば、天下をとったも同然ではないか!他に晴国様のお味方はどれだけおられるのか?」
「丹波守護代の内藤国貞様、丹波の波々伯部国盛様・波々伯部左衛門尉様、西岡国衆の野田弾正忠殿などです」
「お、おお、内藤殿もか・・・まあ、いいか」
波多野と内藤とは丹波の支配を巡りライバル関係にあった。
「玄蕃頭(げんばのかみ)家の俺様もいるぜ!」
細川国慶は胸を張って、親指で自身を指した。とはいえ、玄蕃頭家など、分家の分家で、何の力もないに等しいのだが。
「私としては、伯父の仇であった細川尹賢などは、既にこの世にいないので、遺恨も何もない。八上城を返してくれたら、晴国様に協力させていただきますよ」
「やったぜぇ!」
晴国は喜び、国慶とハイタッチした。
「よし、そうと決まれば、若狭に戻って軍勢の準備をするぜぇ!」
晴国は飛び出していった。
「だから勝手に行動するなって!」
国慶は後を追いかけた。
「では、秀忠様のご同意をいただけたと本願寺へ報告いたします。八上城のご返還については、後日、ご連絡いたします。それでは」
国村も退席した。
「元長殿を滅ぼした一向一揆が、まさか六郎様の敵に回るとは・・・六郎様も、滅ぼされかねんな」
秀忠はつぶやいた。
この年(1532年)の7月29日、後奈良天皇は、将軍・足利義晴の執奏に基づき、元号を享禄から天文に改めた。一向一揆が猛威を奮っていたため、兵革(戦乱)の凶事を断ち切るべく、「災異改元」を行ったのである。
「うおおおー!」
千熊丸は気合いと共に立ち上がった。母・慶春院を背負って大善寺まで駆け登るのである。
「俺もやるー!」
孫六郎はそう言うやいなや、千々世の背に飛び乗った。
「年少組、出陣!」
5人が芝生城の裏門に着くと、篠原長政(子泣き爺)は甲高い声で合図し、子らは「おう」と応え、走り出した。
千熊丸と千々世も走り出した。
「俺だけ誰も背負っていないのは恥ずかしいな。長政、俺の背に乗ってくれ」
「いいですとも、いいですとも」
千満丸は、長政(子泣き爺)を背負って軽快に走り出した。
(あの時死にそうになった私が、まさか長秀様のお孫様に背負われる日が来ようとは・・・)
長政(子泣き爺)は嬉し泣きの涙を流し始めた。
「おや、今日は千満丸の姿が見えんのう」
先生が山道を降っていくと、泣いている長政(子泣き爺)の下で、地面にめり込んだ千満丸がいた。
千熊丸はもはや寺子屋で学ぶ必要はなく、母の送り迎えをしているだけなのだが、今日は先生に相談があった。
「先生、柔術の特訓なのですが、孫六郎の組手の相手になれそうな子はいないでしょうか?」
孫六郎には、兄の千満丸と千々世は強過ぎるのである。
「それなら、篠原長政の嫡男・孫四郎はどうじゃ?良い子じゃぞ」
孫四郎は後の篠原長房(しのはら ながふさ)である。後々まで大活躍するぞ。わしがキャスティングするなら、霜降り明星のせいやさんじゃ。
千熊丸は帰路、長政(子泣き爺)に、孫四郎の鍛錬参加の許可を得た。
「いいですか、『人』という字は・・・」
鉄矢も寺子屋を手伝っていた。
「読み書きまで習えるなんて、ありがたいぜ」
優作と辰夫も字を習い直していた。
「観自在菩薩・・・」
慶春院が読経する声が、千満丸らのところまで聞こえてきた。
「やっておるな。どれ、慶春院の様子も見て来よう」
先生は慶春院のいる部屋に入った。
「その調子じゃ。がんばれ!」
慶春院は逆立ちで片手腕立てをしながら経を読んでいた。筋トレに励んでいたのである。
千熊丸は、午前には主に政務をこなした。三好長逸、篠原長政ら家臣と共に、富国強兵と阿波の防衛のために取り組んだのである。勝瑞館や撫養の港等へも度々出張し、畿内の情勢の把握にも努めた。
午後は主に鍛錬である。塩田胤貞も京から戻ってきたので、家臣らの武芸の指南に当たらせた。千熊丸の二刀流にもますます磨きがかかった。時には領内の視察もした。
千満丸らは午前に引き続き、大善寺で先生から柔術を学んだ。孫六郎と孫四郎は受け身からである。
夜、千熊丸は大善寺で先生から柔術の稽古をつけてもらった。組手の相手は母の慶春院である。当初は圧倒的に慶春院のほうが強かったが、次第に千熊丸も強くなっていった。
このように、阿波では千熊丸らが力を蓄えていたが、畿内では、六郎らが一向一揆と熾烈な争いを繰り広げていた。
「貴殿ら、とんでもなく強いなあ!あの一揆の者らを容易く打ち破るとは!」
7月下旬、大和で、木沢長政(天狗)は、筒井方として参戦している出っ歯の武将に声をかけた。
「俺らはただの傭兵やで。三好の遠縁やけど、今は柳生の世話になりながら、筒井から金もろて戦ってるだけや」
「筒井の倍の金を出せば、わしのために働いてくれるか?」
「ええで。それなりの代官職でもくれると言うなら、何でもやったるわ」
「では早速頼みたいことがある。ところで、貴殿の名は?」
「三好・・・連盛(つらもり)や」
「師匠。目立つようなことはせずに、日銭を稼いで伊賀の山奥でのんびり暮らそうっていう方針だったじゃないですか?大丈夫ですか?」
「大丈夫や。一番若かった元長すら死んだんや。俺らのことを知ってる奴なんて、もうおらへんはずや」
8月4日、堺を目前にして、三好連盛は重臣の慎二に答えた。
「俺は、戦で暴れ回るほうが性に合ってるんで、こっちのほうがいいですけどね」
人志が言った。
「俺もそうや。そやけど、お前ら、女にだけは二度と手を出すなよ。達也は酒もアカン。博之、闇傭兵は禁止やからな。分かったか!」
「分かりました!」
7人の重臣は声を揃えた。
「よし、七人童子よ!兵を率いて、本願寺の浅香道場を、いてもうたれ!」
「合点承知!」
連盛は7人の重臣を「七人童子」と呼んでいた。7人は7人とも、面具や布で顔を隠している。
連盛の軍勢は、木沢の旗印を掲げ、浅香道場とその近郊を焼き払った。
浅香道場の焼き討ちに激怒した本願寺は、摂津・河内・和泉・大和で再び一斉に一揆を蜂起させた。しかし、各地で各個撃破されてしまう。一揆の戦力を分散させるという六郎方の戦略にはめられたのだ。なお、池田の池田信正(麺)だけは、三好政長の指示に背き、「金持ち喧嘩せず」と、銭を払って本願寺と和睦した。
「六郎様。一向一揆を各個撃破する策が、見事に決まりました。大坂御坊付近の戦闘では、下間刑部太夫ら敵将も討ち取ったということです」
「流石は名軍師・政長じゃ!」
8月9日、報告する三好政長を、細川六郎は褒めた。
「いよいよ敵の本拠地・山科本願寺攻めです。この法華宗本山の本圀寺(ほんこくじ)に、柳本勢や法華宗徒が集結しております。六角定頼様も近江で出兵の準備を整えたということでございます」
「一向一揆に法華一揆をぶつけるという、毒を以て毒を制する作戦だな。政長、お主は本当に冴えておるのう!」
「では明日から、作戦を決行いたします」
「任せた」
8月10日から、晴元方は、東山の本願寺の末寺を焼き討ちしていった。
8月12日、近江国守護・六角定頼は、近江の本願寺派の寺を焼き討ちした。
本願寺も反撃のため、山科本願寺から出兵したが、8月16日には法華宗徒に敗れ、翌日も大敗した。
8月19日には、摂津から2千余りの一向一揆の援軍が山崎へ進軍したが、柳本勢と法華宗徒に撃退され、3百人が討ち死にした。山科本願寺は、完全に孤立した状態となった。
8月23日、柳本勢ら晴元方、六角方、法華宗徒らは、山科本願寺を包囲した。
8月24日、激しい攻防の末、山科本願寺は焼け落ちた。本願寺中興の祖・蓮如が創建してから55年後、富貴・栄華を誇り仏国のごとしと称された山科本願寺は、ここに滅亡したのである。焼け跡では金銀財宝を民が奪い合って、多数の死傷者が出た。
「細川六郎!絶対に許さん!」
大坂御坊で、山科本願寺焼亡の報を聞いた本願寺第10世宗主・証如は激怒した。証如は6月に三好元長攻めの一揆を起こしてから、ずっと大坂御坊にいる。
「頼秀!話が違うではないか!」
証如は下間頼秀に向かって怒声を浴びせた。
「少し予定が狂ってしまいましたが、保険はかけております。六郎には目に物見せてやりますよ。必ずや、この世界を本願寺のものにしてご覧にいれます」
「任せたぞ。ただ、失敗した場合は・・・分かっておるな」
証如は扇を開き、舞をまった。
この時より、大坂御坊は大坂本願寺と称され、新たな教団の本拠地となった。
そして六郎との戦いの第2ラウンドが開始されるのである。
<<続く>>
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